日本語の心臓とか心をフランス語ではcœurといって、

日本語の心臓とか心をフランス語ではcœurといって、発音は「クール」で、でも「クール」と言っても、たぶん通じない。

大学2年生の中級フランス語の授業で、エアコンもない教室、夏休みの補講だったと記憶している。授業を担っているのは、非常勤講師のマダムペローといって、感情の起伏が激しい、和紙の研究をしているフランス人だった。マダムペローは、授業でしばしば金切り声をあげて学生を怒鳴ったが、私は、マダムペローに気に入られていた。気に入られるのは、それがえこ贔屓であれ、好きだ。もちろん、嫌いと思う人から、気に入られたいとは思わない。私にとって、マダムペローは、悪い人ではなかった。

パリの街を紹介したフランス語テクストが、その日の教材だった。私が和訳を進めると、あるところで、マダムペローは、「ちがうちがう」と日本語で遮った。

マダムペローは大柄で、これしか体に入らないとばかりに大きなワンピースを着ていたように思い出すのだが、そうではなかったのかもしれない。銀色の短い髪と、つまんで持ち上げたような高い鼻のかたちをおぼえている。

私は、なんでも書きたい。いま、子猫二人が部屋の中を走り回って、取っ組み合って、椅子の足の裏に貼り付けた、椅子を引きずる音を低減するフェルトを引きちぎろうとしていることも書きたい。

後日、マダムペローは、体調を崩して帰国したと聞き、そのことは別のフランス語の先生から周知されたのだが、さらにそのあと、彼女は亡くなったことを、私は知っている。たぶん、誰も知らない。和紙の研究誌に、追悼記事が書かれていた。私は、けっこう、いろんなことを知っている。

パリは、フランスの心臓部、すなわち中心であると、私は口頭で訳した。「ちがうちがう」とペロー先生は言って、「それは嘘ではないけど、テクストには書かれていない」と、フランス語で言った。

夏休みの補講に出ていたくらいだったから、たぶん点数が足りなかった私たち生徒は三人で、私を除く二人も何か翻訳してみたが、「ちがいます」と、ペローはいくらでも待ちますよと言わんばかりに、のけぞって言った。

そのころ、私はタバコを吸っていて、教室を出た廊下にも、灰皿は置いてあった。授業が終わると、廊下でタバコを吸った。中庭でタバコを吸ったときは、吸い殻を足元に捨てて、靴底で揉み消した。いちどだけ、恋人に咎められたことがあったが、何か言い返して(あるいは謝って)、それだけのことである。

私は気づいた。forme(かたち)という単語を見逃していた、訳していなかった。

「わかりました」と、私は言った。「どうぞ」と、ペロー。

「パリは、心臓のかたちをしています」

「そうよ、正解」とペローが言った。

他の生徒二人が、「ああー」と感嘆して、私は少しいい気持になるが、フランス語で書かれていることを素直に訳せば、そうなる。というか、それ以外にはならない。

私は、その半年後、フランス語の実用書の下訳のアルバイトをして、ちょっとした金額をもらう。恋人に何かごちそうした。もしかしたら、違う女の子だったかもしれない。

「心臓のかたち」は、フランス語ではforme de cœurで、cœurは英語だとheartだから、パリは「ハートのかたち」といってもいい。

「ハートを描くのは、残念」と、奥さんが言った。嫌いではなく、「残念」と言った。「やさしい心みたいなものを表現しようとすると、誰でもかれでもハートを描いて、安心しきっている」と、奥さんが言ったわけではないが、そういうことらしい。福祉関係の絵画作品なんて、ハートだらけと、奥さんが言った。だから、残念だと。

心臓と心は別物なのは、誰でも知ってるのに、ハートのかたちを描く人がいる。

「そろそろ、やめにしませんか」とは、言わない。干した布団をバシバシ叩く人を見ると、それは素材をいためるだけ、「そろそろ、やめにしませんか」と思うけれども、ハートのかたちを描く人に、私はそうは言わない。

鶏肉や、牛肉、豚肉(羊肉も!)が、なぜあんなにおいしいかを、考えたことがありますか? 人類史30万年に対する、問い。私は肉を食べるけど、どれだけ、もう、ほんとうにどれだけ考えても、肉食は間違っている。どうしたって、ヴィーガンであることは、やっぱり、正しい。肉食は汚れていると、いってもいい。